聖光上人ご法語

答う。師の云わく善導和尚の意は、決定往生の信心を発して、一向専修の念仏を行じ、偏(ひとえ)に臨終正念を期して退転懈怠無き者は自然に三心を具するなり。経文釈文の意この趣(おもむき)を出でず。然れば則ち善導所立(しょりゅう)の一向専修は広大慈悲の支度を構え、正義正理(しょうぎしょうり)の方便を設け、末代愚鈍の衆生に与えたまえる決定往生の要法なり。

前編第二十一『信心厚き人』

読誦正行の事。広く通じては三部経を読誦すべし。別しては略して阿弥陀経を読誦すべし。之に依りて上人在生の時、阿弥陀経を長日(ぢょうじつ)に三巻これを誦しませり。

礼拝正行の事。礼拝に上中下あり。行者の根機に依るべし。但し多分は下根の礼これを用うべし。昔上人在世の御時、予に示して云わく、宇治の辺(ほとり)に住せる行者あり、坐ながら礼拝を修して、終に以て往生を得おわんぬと。

口称正行の事。心には往生の念(おも)いを志し口には南無阿弥陀仏と称す。

讃歎供養正行の事。もしは二行と為すべきか。一つには讃歎正行、二つには供養正行。凡そ五種正行是の如し。但し一人して具さに五種を行じ、もしは一種二種もしは三種四(し)種、行者の機根に依るべし。

前編第二十四『往生の正業』

正業(しょうごう)とし奉る心は、平等の功徳と成るが故なり。平等の功徳と申すは、南無阿弥陀仏と申す事はいかなる人の口にも唱えらるる事なり。いわゆる貴き人の口にもまずしき人の口にも、智恵ある人の口にも智恵なき人の口にも、徳ある人の口にも貧窮(びんぐ)の人の口にも、幼き人の口にも年老い人の口にも、幸せある人の口にも幸せなき人の口にも、誠にかかる目出度(めでた)きと侍りて、普くもろもろの万人を極楽に導き渡す、功徳善根のあまねく衆生を利益し度する事は、ただ此の念仏なり。故に往生の正業と申すなり。

前編第二十五『念仏の助業』

助行(じょぎょう)にまた四つあり。一つには三部経を読誦す。此れは経を読まんには浄土三部経を読んで念仏を助くべし。三部経を読むは念仏を助くる要業(ようごう)と成る。浄土の三部経ならぬ余経を読むは念仏の要と成らず。故に浄土の三部経を読むを念仏の助業と云うなり。

二つには阿弥陀仏を観念す。此れは阿弥陀仏の極楽を観念するに、念仏を助くる要と成る。余の観は念仏の要と成らず。故に阿弥陀仏を観念すれば、念仏の助業と成ると云うなり。

三つには阿弥陀仏を礼拝す。此れは阿弥陀仏を礼拝し奉れば念仏の助業と成るなり。余の仏を礼し奉れば念仏の助業を成らず、故に阿弥陀仏を礼拝し奉れば念仏の助業と成ると云うなり。

四つには阿弥陀仏を讃嘆(さんだん)し供養す。此れは阿弥陀仏を讃嘆供養し奉れば念仏の助業と成り、余の仏を讃嘆供養し奉れば念仏の助業と成らず。故にひとすじに阿弥陀仏を讃嘆供養し奉るを以て念仏の助業と云うなり。

上件(かみくだん)の四行(しぎょう)これを念仏の助業と云うなり。

前編第二十六『恭敬修』

第一に恭敬修(くぎょうしゅ)とは、先ず念仏とは本尊持経(じきょう)をもうけて貴く道場を荘厳して、その中に於いて東向きに阿弥陀仏を置き奉り、香花灯明(こうげとうみょう)、時の菓子を備え、我が身手(しんしゅ)を洗浴(せんよく)し、口を濯(すす)ぎ、袈裟衣(けさころも)を着(ちゃく)すべし。もし男女(なんにょ)は新しき衣を着、もしよごれて不浄に覚えたる着物をば着すべからず。さて道場に入(い)りて仏を見まいらせて畏(かしこ)まりて、もしは手を合掌し、もしは香炉を取り、もしは念珠を持ち、もしは持たずとも申さん念仏は是れ恭敬修の念仏なり。また道場に入らずとも、ただ手を洗いうがいなんどして、西に向かいて申す念仏は是れも恭敬修形。

またのたまわく、恭敬修とは極楽の三宝を恭敬修し、あるいは娑婆の住持の三宝を恭敬す。娑婆の住持の三宝とは、一つには仏宝とは木像画像の阿弥陀、本尊是れなり。二つには法宝(ほうぼう)とは黄紙朱軸(おうししゅじく)の浄土三部経、持経是れなり。三つには僧宝(そうぼう)とは念仏修行の好伴同行(こうはんどうぎょう)なり。善知識是れなり。

さらにまた恭敬修。または慇重修(おんじゅうしゅ)と名づく、憍慢の心を対治(たいじ)す。礼讃に云わく、彼の仏および彼の一切の聖衆(しょうじゅ)等を恭敬し礼拝す。

西方要決に恭敬修に五つあり。一つには有縁の聖人(しょうにん)を敬う。行住坐臥に西方に背かざれ。二つには有縁の像経を敬う。一仏二菩薩の像を造り尊経(そんきょう)を抄写(しょうしゃ)して恒(つね)に浄室に置く。三つには有縁の知識を敬う。浄土の教えを宣(のぶ)る人。四つには有縁の同伴を敬う。同修行の者。五つには住持の三宝を敬う。今の浅識(せんしき)のために大因縁となる。

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